?「イエス・キリストのよみがえり(復活)の信憑性」を三回にわたって考えます。第二回目は、イエス復活を支持する歴史学的証拠として「教義・世界観の変化」と「人々の変化」を紹介します。, 原田元道(はらだもとみち)。高知県出身。アメリカ留学中(物理学博士号、Ph. 神は、罪深い男だよ。 一つ目の「なぜイエス・キリストが十字架刑で死んだのか」については、少し前に三回シリーズで扱いました。, 上記三つの中でも一番最後の「キリスト教的理由・意味」において、イエスが十字架刑で死んだ理由は, ということで、今回のテーマは「なぜイエス・キリストがよみがえった(復活した)のか?」について、つまりは、キリスト教の教える「イエス復活の意味」を一緒に考えようと思います。, 世間一般の常識として、死んだ人が死後、数日経って生き返ることは残念ながらあり得ません。しかも、, なお、被造物の生死を操る力をもった神というのは、イエスの復活においてだけでなく聖書全体(サムエル記第一2章6節;列王記第一17章17-24節など)を通して、一貫して描かれている神の性質でもあります。, また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ【エペソ人への手紙1章19-20節】, 出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈新〉385頁, そしてパウロは、二つ目の「(神を)信じる者に働く神のすぐれた力」がどれほど偉大なものであるかをエペソに住む人々に知ってほしいと祈って(願って)います。, この「(神を)信じる者に働く神のすぐれた力」は文脈から分かるように、残念ながら、死んだ人をよみがえらせることができる力(神の大能の力)ではありません。, が、その力とは、例えば、悪魔や悪霊に屈しないための力を意味しています(参照:エペソ人への手紙6章10-12節)。4, この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。【エペソ人への手紙1章20-21節】, なお、「神の右手」というのは、旧約聖書において「勝利」(詩篇20篇6節など)や「力」(詩篇89篇13節など)を表します。そして、イエスが「神の右の座に着く」というのは、イエスが父なる神と王座・王権(throne)を共にすることを意味します(参考:ヨハネの黙示録3章21節)。6, 主は 私(ダビデ)の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」【詩篇110篇1節】, 出典:新日本聖書刊行会『聖書 新改訳2017』(いのちのことば社、2017年)〈旧〉1053頁, ここで「私」はイスラエル王国の王「ダビデ」、最初の「主(しゅ)」は「神」、次の「私の主」は「救い主(キリスト、メシア)」を指しています。つまり、神が救い主(キリスト、メシア)に対して、, God Inviting Christ to Sit on the Throne at His Right Hand, 1645. 噂はさらに尾ひれがついて、真実っぽい話が各地に出現することになり、一種の社会ヒステリー現象が起こった。 それは、これからキリスト者がおこなう犯行を予告し、他の宗教に対する警告を伝えるためのものだったのではないでしょうか。 それでシナリオを実現するためにヨセフ(父親のヨセフじゃない)が自分の領地内の墓にイエスを埋葬し、イエスが言うとおり3日後に復活するという事を実現させるため、イエスの死体を墓から撤去した。 5)イエスをメシアとする人々の期待 「やっと見つけた もう 私を置いていかないでよ」と言ったかどうか。 愛は、差別する心から生まれます。 聖書にある救いとは、人類が絶滅することでしか、為し遂げられないものだとしたら、本当の救いは戦争でしか到達しえないのかもしれません。, なるへそ。 ふと思い出したのだが、若い頃にクリスチャンの女の子を紹介されてデートしたことが2度あった。とりあえずここでは、A子さん、B子さんとしよう。2人は全く別の生活圏に属する人で、彼女らの繋がりはないし、それぞれにお会いしたのが、私の何歳頃のことであったかも忘れてしまったのであるが、そこで交わした会話の一部分に、妙に覚えているところがある。以下、少し小説風に述べてみよう。, 一方、数年後に出会ったB子さんは、こんな感じであった。彼女は、食事を終えてコーヒーが運ばれてくると、少しの沈黙の後、こんなことを言い出した。, また、そういった「西洋文学をもっとよく読めるようになりたい」という気持ちだけでなく、若い頃の私には、「『聖書』の神を信じることができれば、ひょっとしたら人生諸般のすべての悩みから救われて、安心して生きていけるようになるのではないか」という思いもなくはなかった。そこで、聖書の一部分を読んだり、クリスチャンの書いた本なども、少しは読んだ。, 聖書を繙いてみた人ならわかると思うのだが、聖書は旧約と新約を合わせると、大判の辞書並みの大きさになる。だから、全部を読破することはなかなか難しいのであるが、私はかつて無謀にも、「創世記」から全部読んでしまおうとの計画を立てた。けれども、根気のない私には、それは至難の業であった。したがって、私はまだ聖書を全部読破したわけではないのであるが、「福音書」だけは一応読んだ。聖書を読んでみたいという人は、せめて「福音書」だけでも先に全部読んでしまえばいいと思う。「福音書」すなわち、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ伝を読めば、イエスがどのような生涯を送り、どのような教えをもたらしたかのガイドラインはわかる。もちろん、聖書全体を読まなければ、「キリスト教としてのイエスの教え」を理解したことにはならないのかもしれないが。, さて、「福音書」には、さまざまなイエスの言動が記されているのであるが、その中でも現代人の我々が違和感を持って読まざるをえないのは、彼による数々の「奇跡」であろう。イエスは「水をぶどう酒に変える」という奇跡をはじめとして、嵐を静めたり、少量のパンや魚で多くの人の飢えを満たしたり、多くの病人を癒やしたりした。いらだっている時には、いちじくの木を枯らしたりもしたし、気分が乗っている時は、水の上を歩いたりもしたようである。さらに驚いたことには、ラザロという死人を生き返らせるようなことまでやってのけた。そして、これらの奇跡にもまして、最も重要な奇跡は、彼自身が、十字架で磔になって死んだにもかかわらず、3日後に生き返った(復活した)ということだ。マグダラのマリアの前に現れ、弟子たちと8日間過ごしたイエスは、彼らが見守る中、昇天したという。, こうした奇跡に対して、クリスチャンや学者などがとる立場はいろいろだ。例えば、これらの奇跡の記述はすべてあくまでも文学的・比喩的なものであり、福音書の記者は、これらの比喩を方便として真理を伝えようとしているのだとする説。さらに、水をぶどう酒に変えたり、少量のパンや魚で多くの人の飢えを満たしたというのは、いわばマジックまがいのことが行われただけなので、必ずトリックが存在したはずだという説もある。また、たとえば「水の上を歩く」などということは、ヨガ行者が空中浮揚できるのと同様に、修行を積めば不可能なことではない、という考え方もある。, だが、私はこうした説に与しない。このような解釈を前にして私が思うのは、キリストの教えというものは、あくまでも「奇跡」があってこその教えであり、こうした奇跡を非科学的で荒唐無稽なものだと考えてしまったら、キリスト教そのものの意味がなくなってしまうのではないか、ということである。特に、キリストが3日後に生き返ったという奇跡は最も重要だ。この奇跡をそのまま信じることができないならば、キリスト教の根幹である「復活」の思想の根底が揺らいでしまうのではないだろうか。, 仏教においても、同じようなことが言える。とある有名な仏教学者の大学教授が、雑誌のインタビューに答えて、「釈迦の教えが、非科学的な『輪廻思想』に基づいていたというのは誤りです。彼は魂の存在というようなことも認めなかった。人は死んだら終わり、無になると考えていたのです。したがって、釈迦の考え方は非常に合理的・科学的で、現代の我々の常識的な考え方とマッチしている。仏教は宗教ではなくて、生活の知恵、人生訓です。心に生じた苦しみをいかに無くしていくかということが、彼の哲学のテーマでした。欲望に執着しないようにすることによって、彼は心の平安に至ろうとしたのです」というようなことを言っていた。幸か不幸か大学の教授職を獲て、現代社会においてある一定の権威を持ってしまった、彼のようないい加減な学者の発言は、確実に現代仏教を無力化しているといってよい。思うに彼は、仏教は宗教ではない、科学的・合理的な思想だと発言することで世人におもねり、「自分は非科学的な宗教を語るような怪しい人間ではない。ちゃんとした学者である」というアピールをしているのではなかろうか。, ここで少し自分なりの考えを述べさせていただくと、釈迦の時代のインドでは、「輪廻転生」という考え方は当たり前で、釈迦の発言もそのことを前提としたものである。また、釈迦は魂という実体的なものを認めなかったという説もよく聞くが、それは死後の魂だけでなく生きているうちの魂にとっても言えることで、彼は「魂」だけではなく、生きとし生けるものすべての存在が「無常」で「無我」だと言ったのである。したがって彼は、死後に存続していくものがない、とは言っていない。それにそもそも、「死んだら終わり」という思想が人間の救済につながるなどといったことがありえるのだろうか。, 晴佐久昌英(はれさく まさひで)という神父がいて、この人は最近結構本を出版されているのであるが、彼は著書の中で「できるだけ『浮世離れ』することが、宗教の本質である」というようなことをおっしゃっていた。なるほど、この人は本物の宗教家だなあと思った。, 私がここで言いたいのは、キリスト教でいえば「奇跡」、仏教でいえば「輪廻転生」などの、ある意味「浮世離れ」した部分、言い換えれば、神秘思想的でオカルト的な部分こそが、我々の救済につながるのではないかということである。逆に、現代社会の「常識」や合理的・科学的思考と矛盾しない宗教、世間の常識にマッチした宗教など、人畜無害で何の力も持たないのではないかと思う。すべての本物の宗教、いや宗教だけでなく、人間を根底から変えていく血の通った思想は、むしろ世間の「常識」と拮抗・対立する形で、我々に力を与えていくものではなかろうか。, 話がやや大げさなものになってしまったが、そういった意味では、私が出会ったA子さんやB子さんは、「奇跡」をも含めてキリスト教をまるごと信じているというあり方においては、まさに本物のクリスチャンであった。けれども残念ながら、若い頃の私は、A子さんに対してもB子さんに対しても、何か心の中に入り込めないようなものを感じてしまい、その後お付き合いが始まる、などということはなかった。A子さんなどは、ミッション系の学校を出た、なかなかの美人であったような気もするが、今にして思えば惜しいことをした(笑)のかもしれない。もっと彼女たちの内面を理解しようとする努力をすれば、私自身も内面的に成長できたのかもしれない、などと勝手なことを考えてみたりもする今日この頃なのであった。. が、シナリオがあらかじめわかっていたので、先手を打って次のシナリオを書いた。 キリストが処刑されるようなことも平気でできたのは, 生きるための覚悟のなさですね。 なんか、生きていくのが嫌になりました。 霊的なお話ありがとね。, ホームセキュリティのプロが、家庭の防犯対策を真剣に考える 2組のご夫婦へ実際の防犯対策術をご紹介!どうすれば家と家族を守れるのかを教えます!, すみません かなり無知な者からの質問です。 天使 こんな罪深い人間なんて滅んでしまえばいいのにね。 反ユダヤ主義 複雑な兄弟関係。 このカテで少し前に投稿された質問(キリスト様の死因は?)を見掛けて、それで単純に思いついて、この質問を立てています。 そういうわけで自分自身は預言書(聖書)に書かれている人物だと思えるようになり、後は預言書(シナリオ)通りに計画して自分の将来を決めたようです。 洗礼 聖書が史実を偽るのはよしとしますが、ユダヤ人に対し差別的に書かれているのはいかがなものかしら。 となると・・・・イエスの死後トマスがイエスのわき腹に手を入れて確認したと言うのの信憑性は・・・自作自演かな。 悪霊 なぜ、聖書に世紀末の到来が予見されているのでしょうか。 ところが狂信的な考えのイエスが死んでしまってはビジネスも下火になりかねない。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。...【解説を読む】, 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。...【解説を読む】, 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい...【解説を読む】, あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。...【解説を読む】, それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。...【解説を読む】, だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。...【解説を読む】, 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるため...【解説を読む】, 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです...【解説を読む】. 戦争と虐殺の中で、天界から笑いながら人間を見下しているのね。 救い 1)誕生 しかし、歴史的には、キリストを信じている人が、イスラム教やユダヤ教を差別し、迫害していたのも事実です。 勝った勢力のキリスト教団が言うのが今日の主流の事実とされていることになっていますが、勢力がすごくない教団の認識も聞くと、どっちかというとまっとうなのは、勢力の強かった方じゃなく、勢力に押されて異端とされた方が事実だったんじゃないかなって思える節があります。, 複数の研究者の本を読むと、イエスは自分が死ぬ計画をし、回りの人はそれでは困ると彼を説得したのだが、イエスは将来を計画し、その計画通りにしか行動が取れない、いわば柔らかい思考ではなく硬い思考の性格だったと思えます。 キリストが復活した後の話について教えてください。今も、復活したままで、どこかにいるのか。復活したキリストは、現代人の罪については救おうとしているのか、いないのか。キリストは復活した後、500人近い人々に現れ、ご自分が霊肉 中川洋 > イエス・キリストを心の底から信じられるようになるにはどうしたらいいのでしょうか?, 神という存在がいるという事は信じていると思います。ですが、イエス様が私の罪の代わりに十字架に架けられ墓に葬られ3日後に復活なさったという福音をしっかりと確信を持って信じ切れません。頭では理解出来ている気がしますが、心からの理解には達していないような気がします。イエス様を心の底から信じられるようになるにはどうしたらいいのでしょうか。, 救いを受け取る信仰の決断は「自分の意思による選び」です。「心の理解」がついてくるのは、その後の歩みの中で少しずつ体験させていただくものです。もちろん信じたその場で体験できる人もいますが、さらに深い神の世界はやはり時間をかけて知っていくものです。「心の理解」は自力ではできないので、聖霊なる神の働きによってなされます。救いを「決断」で受け取った時に、聖霊が内側に与えられ、聖霊の働きによって、神のみことばと神の栄光(神のすばらしさ)が体験的にわかるようになります。, 信じたいという思いがあるのはすばらしいことです。それでしたら、あとは決断するだけです。イエス・キリストの福音に人生をかけてみようと「意思による選択」をするのです。もちろん、決心した後も、全く迷いもなく、100%神に従える人間などいないのですが「イエス・キリストに従って生きたい」という願い(信仰)と、神のあわれみによって、足りない部分は十字架の上で流されたイエスの血によって赦されるのです。, 信じたい!と思っても、どうすれば人は信じられるようになるのか?というテーマは私の中でも大きな課題でした。けれども「神を信じる」ということも、「神を愛する」ということも「神と向かい合うことだ」とわかった時に、信仰を育てる方法とクリスチャンとして生きる方向性が見えてきました。これは信仰の決心をする前も、決心をした後も、何十年もクリスチャン生活をしてきたとしても、すべての人間に共通していることです。「今日、私は神と向かい合って生きるのか」という決断を毎日していくのです。, 本気でやってみると、神と向き合うというのはとても恐ろしいことなのですが、これが神が望んでおられることなのです。ぜひ生きている神と真正面から向かい合うということに挑戦してみてください。具体的には、祈る時、聖書を読む時に、そのような心構えで臨むということです。また、生活の中でふとした時に神に心を向けることです。何をするにも神の御前で生活をすることです。真正面から向かい合えないなら、すこし顔を向け始めるところからのスタートでもOKです。, 信仰の決心をするのは、高いところから飛び降りるようなものです。片足をだしていても、ジャンプにはならないので、全体重をえいっ!と神の方に委ねないといけないのです。もし、まだ飛び込めないのでしたら、まず、神と向かい合ってみるところからスタートしてみてください。顔を向けることによって神が見えるようになります。そして、神が見えると、この方になら人生をあずけられることが解って、飛び込むことができるようになります。, カトリック教会のミサに行っていますが、プロテスタントの集会に加わるのは失礼でしょうか?, イスラエル 周りの人はそこまで言うのならって思ったし もし預言書が真実を言ってうるのなら自分達ではどうにもできなないという考えになり、イエスに道をゆずったのではないかと思います。 | ローマ10:13-17 キリストの福音を伝えよう », “10:9すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 10:10なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 10:11聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 10:12ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 10:13なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。”(口語訳), 13節の「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」という元の旧約聖書箇所はヨエル2:32です。その聖句が記されている箇所は、キリストの地上再臨の少し前の出来事のところです。“わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。”(ヨエル2:30-32)このヨエル書の預言の意味は、キリストの地上再臨の前には、天においても異常が起こり、地においても大変なことが起こることが記されているのです。月は、太陽に光を反射して輝きますから、太陽の明るさが減少すれば、月は暗くなります。また空中に塵が多くなれば、太陽光の地上に届く量が減少するでしょうし、波長の短い色は地上まで届きにくくなるので、月の色は赤くなるでしょう。私は、太陽の光量の減少と空気中の塵の増加が両方起こるのではないかと考えています。火山の爆発が、あちこちで起きたり、あちこちで山火事が起きたり、戦争により粉じんが巻き起こったり、強風による砂嵐も増加したりと空中の塵の増加は色々と考えられます。黙示録によると、太陽は燃焼の仕方が増加して非常に熱くなったり、またその逆に活動が甚だしく低下したりということが起こると記されているように思います。ヨエルの預言では、そのような中でも主の名を呼ぶ者は救われる、と書いてあるのですが、良く読むと、シオンの山とエルサレムとに逃れる者があるから、と書いてあります。これは、やがて来る大患難時代のイスラエル人を対象にした預言であることが他の聖書箇所の預言と照らし合わせても分かります。では私たち異邦人はどうなるのでしょうか。大患難時代に主イエスを信じる人はほとんどが殉教していくでしょうし、大患難時代以前に主イエスを信じた人は、この期間にはすでに天にいるものと私は多くの聖書箇所から考えています。さて、それはそれとして、いつの時代であっても<主の御名を呼び求める者はすべて救われ>てきました。旧約聖書の初めのころからそうなのです。エノクという人の話は創世記5:21-24にあります。また有名なノアという人の話は創世記6-9章にあります。エリヤという預言者の最後は2列王記2:1にあります。その他大勢の人たちがいますが、旧約時代から主を信じた人(信じ続けて歩んだ人)は、救われたのです。旧約時代に救われた人も、イエス・キリストが十字架の上で贖いを成し遂げられたからなのです。神様は、時間を超越していますからこのようなことは可能なのです。, さて、パウロが伝道していたころのユダヤ人の中には、イエス・キリストが人として地上を歩まれていたところを見た人やキリストが十字架につけられて殺されたところを見たり聞いたりした人達がまだ大勢いたのではないかと思います。ですから、肉の目においてキリストは確かにいた、と言える人は多かったことでしょう。しかし、死んだままのキリストであったら、その人に対してお祈りしたからといって、その祈りは聞かれるでしょうか。キリストは、十字架につけられて死なれた後、3日目に復活されました。復活のキリストに遭った人達は500人以上いると1コリント15:6に記されています。しかし、見なかった人達は、信仰によって復活のキリストを信じるのです。信じたから救われたのか、救われたから信じられているのか、父なる神が或いはその御旨によって聖霊が人に示してくれたから信じることが出来たのか、・・・、人によって感じ方は色々かもしれません。色々なことが同時に起きて救われていくのかもしれません。兎に角、信じた時に救われた、という体験を私はもっています。それは、礼拝説教からではなく、私は門です。というイエス様のことばが説教の中で語られたとき、門とは何を言っているのかもそのときは分からない状態であったにもかかわらず、礼拝中に心の中に「イエス・キリストを信じれば救われるのだ」という思いがひらめき、「そうだ、信じればいいのだ。」と思ったとき救われたのです。その瞬間に私の心の状況はもう一変しました。救われ方は、人それぞれです。私は私の証をすることが出来るだけです。, 信じたら、告白をしろ、と言われなくても内側から自然に信じたことを誰かに話すのではないかと思います。劇的な変化であればある程、黙ってはいられません。どこかへ食事に行っておいしいものを食べたら、自然に「おいしかった」というようなものです。, ローマ10:9-13の要点は、復活したイエス・キリストを信じたら救われる、ということです。信じる者はだれでもわけ隔てなく救われるのです。その上、信じる者の上にあるのは、神の豊かな恵みです。ヨハネ10:10にも<わたし[イエス・キリスト]がきたのは、羊[イエス・キリストを信じる者]に命を得させ、豊かに得させるためである。>とあります。そして「すべて彼[イエス・キリスト]を信じる者は、失望に終ることがない」のです。, <お祈り>天のお父様あなたを信じさせてくださったことを感謝します。これが私の実感です。イエス・キリストを信じるだけで救われる、とはなんと素晴らしいことでしょうか、それは、イエス様が十字架の上で血を流して死んでくださり贖いを成し遂げてくださったからにほかなりません。信じるだけなら、経済的に困窮していても、重病で神様や他人に対して何か良いことをすることが出来なくても、また、文字が読めなくても、小さな子供でも、認知症になっても出来ないわけではありません。その上、信じようと思った時には、そこに神様の助けがすでにあるのですから。神様の至れり尽くせりの故に御名を崇め主イエス・キリストの御名によって感謝してお祈りします。アーメン, 2013年7月 5日 (金) 救い・救われたい方へ, ローマ人への手紙 | 固定リンク, アモス3:3-8 主はいきなりはさばかない。主が裁かれる前には警告を発する。/主イエス様を信じる者は救われる。, アモス1:1-5 ダマスコに対する滅びの預言/イエス・キリスト様を信じる者は犯した罪を赦される, ヨエル2:12-14 悔い改めへの招き/救われるための第一歩は、主に対してへりくだり、悔い改めて主イエス様を信じること, 2サムエル20章 シェバの反乱とシェバの死、アマサを暗殺したヨアブ、ダビデの重臣たち, 2サムエル19:24-43 ダビデとメフィボシェテ、バルジライ、イスラエルとユダの言い争い/幸いなのは主を愛し隣人を愛する者, 2サムエル19:1-23 エルサレムへ向かうダビデ/誰からの忠告でも、それが正しいものであるなら受け入れよう, 2サムエル17:24-29 日ごとの糧を与えてくださる主/神を愛し人を愛することの重要性, 2サムエル17:15-23 ダビデ一行がヨルダン川を渡る/主を自分の神としない者は滅びる/イエス様を信じる者の幸い, 2サムエル16:5-14 シムイの呪いを甘んじて受けるダビデ/主は赦せる心を与えてくださるお方.