base [CTF] 基地。CTFでflagを置いて守るための場所. できれば、ある程度は気心が知れる仲になった後に使いたい言葉です。, タンクという言葉は、あまりその人やキャラクターを尊重して使う言葉でもありません。 pcでr6sというゲームをプレイしていましたが、外国人とマッチングすることも普通にあります。 テキストチャットも英語が主流となっています。 出会った略語、スラング等を忘れないようにメモ。意味は少し違うかもしれないですが、まあニュアンスは合ってるかと。 1. 」, ・・・でも、潜水艇でもまたタンク戦車のごときものすら欧州大戦よりずっと以・・・ 寺田寅彦「科学と文学 この例では、タンク役の人を大切な役目と考えて、悪い意味を含まずに表現しています。 World of Tanks では、ソロプレイも、チームバトルも、覇権をかけてリーダーボードで上位を目指すことも、クランを結成してグローバルマップでの激戦に挑むことも可能。あらゆるプレイヤーのための多様なモードが揃っています . 複数のゲームモード. 2 戦車。第一次大戦で初めて製作されたとき、秘密保持のためタンク(水槽)と呼んだところからいう。, ランニングシャツに似た、首と腕とが大きく露出する形の女性用の上着。もと室内プール(タンク)で着用した男性用水着の上半部(トップ)に似るところからの名称。, 《(和)tank+lorry》円筒形のタンクを備えた、液体・気体運搬専用の貨物自動車。, サンコーは、「もち運びラクラク! 日本語化 †. よって、英語ではこの“tanker”がそのままタンクを表現する言葉です。 戦車には当然攻撃力もありますが、装甲が厚く、そう簡単にはやられないという意味の方を重視して、オンラインゲームではここで説明している意味で使っています。, オンラインゲームで使われる意味のタンクは、海外のプレイヤーは“tanker”と表現しています。 『World of Tanks』は、世界中で熱狂的な支持を集める戦車を題材としたオンライン対戦ゲームです。史実に基づいた様々な装甲戦闘車輌に乗り込み、多様なマップでリアルなゲームプレイを味わうことがで … 」. こちらについても、タンクを担う人の心構えや向いているキャラクターなどを有志が詳しく解説しているページをよく見掛けます。, タンクが大切になるゲームほど、パーティに堅い結束が生まれます。 戦闘の際に、前に立っているほど敵に攻撃されやすいゲームだったり、自由に隊列を組めるタイプのゲームにおいて、他のキャラクターを守る為に、すすんで盾になる役目を果たします。, タンクは他の言葉では、「壁」、「殴られ役」などと表現されます。 Unicode 13.0 と Emoji 13.0 に準拠した などの色々な表情の顔文字や 悪魔 鬼 天狗 エイリアン おばけ ネコの顔文字と ハートマークなどの感情を意味する絵文字の一覧です。2020年 Unicode 13.0 では 涙の笑顔 変装した顔 の絵文字が追加されました。 tankとは。意味や和訳。[名]C1 (液体・ガスなどを蓄える)タンク,ボンベ;(機関車のボイラー用の)水槽≪for≫a water tank水槽an air tank酸素ボンベ1a =tankful1b ((インド・豪・NZ))貯水池,ため池(reservoir)2 タンク,戦車( かつて軍事機密で「水槽」と呼んだことから)3 〔通 … 戦車(せんしゃ、英: tank)は、火砲および自動火器を備え、無限軌道により道路以外を走行する能力と、特殊鋼板製の装甲による防護力とを備えた車両[1]。第一次世界大戦で初めて登場し、第二次世界大戦では地上の戦闘で中心的な役割を果たす兵器となった[1]。, 戦車は一般に、履帯(キャタピラ)を備え、これにより不整地(舗装道路以外の場所、オフロード)でも行動することができる。主たる武装として強力な火砲(戦車砲、「備砲」)を備え、旋回砲塔を装備して砲の向きを変えることができ(ごく初期のものや一部の例外を除く)、これにより敵の陣地・戦車・車輌等々を攻撃できる。副武装として主に機関銃を装備し、これにより歩兵群や非装甲車輌なども制圧できる。防御のためには主に鋼板製の装甲を備え、これにより敵からの小銃・機関銃などでの攻撃に耐える。, 戦車は分類上は陸戦兵器のうち装甲戦闘車両の一種である、ということになる。しかし戦車は戦う車輌の総称ではなく、自走砲や装甲車などとは区別される。何をもって戦車と定義するかは曖昧な部分もあり、また時代や国、地域によって変化する。21世紀初頭現在では次のように要約できる。, 1の走行装置ついては#走行装置の節で詳説、2の防御については#装甲の節で詳説 [注 1]、3の攻撃力については#兵装の節で詳説する。, ただし、上記の条件全てを満たさなくても、保有する側が戦車と呼べば戦車扱いされる可能性もある。例えばスウェーデンのStrv.103は上記のような旋回砲塔を持たず、大戦中の駆逐戦車や対戦車自走砲のような形状の車輛であるが、その開発・運用目的・戦闘能力から、スウェーデン軍では主力戦車として配備されていた。, 現代の正規戦に通用する戦車は、製造に高い技術が求められるうえに部品点数も多く[3]、日本では「戦車は千社[4]」という諧謔があるほど、生産ラインの維持には層の厚い産業が必要である。そのような事情もあって、現在自国で戦車の開発と生産ができる国家は10に満たないと言われる[5]。, 戦車の名称は、兵器としての制式名称と、軍や兵士達によって付けられた愛称とに大別される。愛称については配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与元のイギリス軍による命名則)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名にちなんでいる。イギリスの巡航 (Cruiser) 戦車や主力戦車では「C」で始まる単語が付けられている。日本は旧軍では皇紀、自衛隊では西暦からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ…チ=中戦車のハ=いろは順の三番目)もつけられていた。, 近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。, 第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られいわゆる西部戦線を形成した。戦争開始からそれほど間をおかずに巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線による鉄条網が施されることとなり防御側の絶対優位により、生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。対峙する両軍は互いに激しい砲撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して初期の装甲車など装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための新たな装甲車両が求められた[16]。, 第一次世界大戦では、対峙する軍隊がたがいに塹壕を掘り合い、将兵がそこに身を隠した状態で小銃・機関銃や火砲などを撃ちあって戦い、自陣の前には敵兵が容易に侵入できないように鉄条網などの障害物まで敷設されるようになった。歩兵や騎兵が旧来のような突撃を試みても、彼我の中間に広がる無人地帯では身を隠すこともできず、無防備なまま銃砲撃を受けて撃退されてしまった。こうした情勢が原因で戦線がすっかり膠着してしまい、一方が圧倒的に優勢になって戦線が一気に動くこともなく、何カ月もにもわたって決着がつかないまま、死傷者の数ばかりが大幅に増えることになってしまった。このように膠着してしまった戦線を突破するために考え出されたのが、戦車である。つまり戦車は当初、歩兵が塹壕から出て敵陣へ突撃する時に、彼等が敵の小銃や機関銃などの的になってしまわないように一種の移動する「壁」のようになり、同時に搭載した銃砲で敵陣を制圧する「歩兵支援兵器」として登場したのである。, このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社(現キャタピラー社)が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。このホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。, イギリスではアーネスト・ダンロップ・スウィントン陸軍中佐がホルトトラクターから着想を得て機関銃搭載車として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマーレー・スウェーター海軍大佐が陸上軍艦 (Landship) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。, 陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月に「リトル・ウィリー」を試作した。リトル・ウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、のちのマーク A ホイペット中戦車の原型となった。リトル・ウィリーを反省材料とし、改良を加えられた「マザー (Mother)」(ビッグ・ウィリー)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車の元となった。, マーク I 戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日、ソンムの戦いの中盤での事だった。, 世界初の実戦参加であったソンム会戦でマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。, その後、1917年11月20日のカンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。, 初めて「戦車」としての基本形を整えたのは第一次大戦中に登場したフランスのルノーFT-17という軽戦車であった。, それまでの戦車は砲の死角を低火力な機関銃で補うか重量が嵩む砲を複数搭載したが、FT-17は360度旋回する砲塔を装備し砲の死角を無くした。また、それまでの戦車は車内でエンジンを点検する機関手が搭乗していたがエンジンの騒音と熱気が乗員を苦しめていたことからFT-17では隔壁で戦闘室と機関室を分離し、同時に機関手も廃止された。それまでの車台に箱型の戦闘室を載せる形ではなく、直角に組み合わせた装甲板で車体を構成し、小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えた。, FT-17は3,000輛以上生産され、当時もっとも成功した戦車となった。第一次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の戦車部隊を構成し、また初期の戦車設計の参考資料となった。, 当時開発が盛んだった多砲塔戦車は多数の砲塔を装備するが重量の制約上から強力な主砲を装備することが不可能で、非力な砲が何門もあったところで戦力にならないため衰退した。, 第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった戦車を開発することとなった。敗戦国ドイツも、ヴェルサイユ条約により戦車の開発は禁止されたものの、農業トラクターと称してスウェーデンで戦車の開発、研究を行い、また当時の国際社会の外れ者であるソ連と秘密軍事協力協定を結び、赤軍と一緒にヴォルガ河畔のカザンに戦車開発研究センターを設けた。, 戦車が出現した第一次世界大戦中は対戦車用の火砲は存在しない為、対歩兵用の機関銃に耐えられる程度の装甲で十分であり戦車自身の武装も機関銃だった。対戦車用の火砲が登場すると戦車自身の武装も火砲へ移行し装甲もより分厚くなっていき、第二次世界大戦直前には機関銃が主武装の戦車は廃れていった。, 戦間期に戦車の運用方法が各国で研究され、第二次世界大戦前には、戦術的に、戦車を中心に、それを支援する歩兵、砲兵など諸兵科を統合編成し、戦車を主戦力とする戦車連隊や機甲師団が編成され、対フランス戦においてその威力を発揮し、戦車は陸戦における主力兵器としての価値を証明した。, この事実を重く受け止めた各国は陸軍の改変をすすめ、各国で中戦車が大規模に配備されるようになり、中戦車の数が充実する様になるとそれまで主戦力だった軽戦車は二級兵力に成り下がり偵察や水陸両用戦車といった用途で使用された(中国の15式軽戦車のように現在でも製造・運用されている軽戦車も存在する)。, 攻守ともに当時としては破格で8万両以上生産されたソ連のT-34は米英軍の戦車より質及び量で優越することになる。独ソ戦におけるT-34ショックは、海軍艦艇における戦艦「ドレッドノート」の出現による既存・計画艦艇の陳腐化と同様の衝撃をもって受け止められ、独ソ間でのシーソーゲームは戦車の発展及び対戦車兵器の開発を推し進めた。また、T-34は避弾経始に優れた曲面形状の鋳造砲塔と傾斜装甲を取り入れており、第2世代主力戦車(いわゆる第二次世界大戦後第2世代の戦車)まで、各国で避弾経始を意識した戦車設計が行われた。, 自動車大国であったアメリカで開発されたM4中戦車は高度な自動車技術が応用されているため信頼性が高く、アメリカ軍の高い兵站能力によって5万両以上が生産された。75mm砲すら不足していたイギリスにとっては最良の戦車でありイギリスはレンドリースによってM4中戦車をアメリカからを受け取った。配備当初は数の優越で質の劣勢を補っていたがドイツ軍重戦車が活躍するようになるとそれに対抗できる強力な戦車が求められアメリカではM26重戦車(M3 90mmライフル砲搭載)が、イギリスでは重戦車相当のセンチュリオン重巡航戦車(オードナンス QF 17ポンド砲搭載)が開発され、更にセンチュリオンは歩兵戦車と巡航戦車を統合した。また、これらの重戦車は車体に傾斜装甲を採用したことで重量の割に高い防御力を発揮した。, 戦車においては長らく圧延鋼板をリベット留めした構造が大半であったがリベットは被弾や付近での爆発による衝撃で千切れ飛び、車内の戦車兵や随伴歩兵が死傷する事故が相次いだ。また、留め具であるリベットを失った装甲板は脱落することもあった。戦地の部隊が鋼板や土嚢等を防護力を高めるための増加装甲として独自に取り付ける事例が多かった。一部の先進国では圧延鋼板を線で接合する溶接技術や鋳造鋼をボルトで接合する製法が採り入れられた。また、先進国の戦車は重装甲なため大出力なエンジンが必要だったが、航空機用エンジンが転用されることが多かった。, なお、用途に応じた戦車として、偵察戦車、指揮戦車、駆逐戦車、火炎放射戦車、対空戦車、架橋戦車、回収戦車、水陸両用戦車、地雷処理戦車、空挺戦車などが存在した。これらの殆どは、既存の戦車の車体や走行装置を流用して製作された。, 第1世代主力戦車は西側ではセンチュリオン、M26を発展させたM46パットンが登場し、東側ではそれらの西側中戦車に対抗してT-44を攻守共に強化したT-54(D-10T 100mmライフル砲搭載)が登場した。当時の西側中戦車は、かつては重戦車に分類されていたがソ連のT-10と同級のコンカラーとM103ファイティングモンスターといったさらに強力な重戦車が開発され、相対的に中戦車へと成り下がった。, 特徴として丸型の鋳造砲塔を持ち、ジャイロ式砲身安定装置により走行中の射撃も可能である。, 第2世代主力戦車はイギリスで開発されたロイヤル・オードナンスL7 105mmライフル砲が西側戦車で広く採用された[注 9]。東側では西側に先駆け滑腔砲(115mm滑腔砲)を搭載した。中戦車の重戦車化によって重戦車は存在意義を失い、中戦車があらゆる局面において活用される主力戦車(英: main battle tank、MBT)として生き残った。ただし、ソ連では高性能で高価なT-64及びT-80と、廉価版のT-62及びT-72という、重量による区別とは異なるハイローミックスの二本立てが存在した。また、自走化された対戦車砲である駆逐戦車は存在意義を失っていったが、軽戦車や歩兵戦車などが果たしていた役割を担うための車輌として、歩兵戦闘車のような主力戦車よりも軽量の戦闘車輌が多数生み出された。, 対戦車ミサイルが発達し、随伴歩兵による携帯用対戦車兵器を持つ敵歩兵部隊の掃討がより重要となったことは歩兵戦闘車の開発を加速し、戦車部隊と機械化歩兵部隊がともに行動する戦術がより重視されることとなった。戦車の防御力が攻撃力に対し立ち遅れ、防御力を捨て機動力で戦車を守るという考え方が生まれ、「戦車不要論」が主流となった時代でもあった。, 特徴として砲塔内容積と避弾経始を両立するため砲塔は横に広くなり、アクティブ投光器による暗視装置により夜戦能力を得た。, ソ連製のT-72は125mm 2A26の搭載、2層のガラス繊維材を装甲板で挟み込んだ複合装甲の採用、軽量化によって当時の戦車の中では走・攻・守いずれにおいても優れていた。一方、豊富な戦車戦経験と戦車の改造技術を持つイスラエル初の国産戦車メルカバはその独自の設計と、1982年のレバノン内戦でT-72を破った事で注目を集めた。メルカバのM111 APFSDS弾はT-72が採用された当時の西側砲弾より強力でありメルカバより前に設計されたT-72がM111を想定した防御力を持っているはずもないためであるが、この戦訓を基にT-72の装甲強化モデルが開発され、依然としてソ連製戦車は西側に脅威を感じさせていた。, 第3世代主力戦車は西側ではドイツでラインメタル L44 120mm滑腔砲が開発され一般化し、複合装甲(性質の異なる装甲素材を重ね合わせた装甲で単一素材の圧延鋼板装甲より強固とされる)を導入し、パッシブ型(投光器で光を照射するアクティブ型と違い、敵の発した光を受容する)の暗視装置を持つ。東側は対戦車ミサイルも発射可能な2A46を搭載し、防御面では複合装甲だけでなく箱状の爆発反応装甲を併用している[注 10]。, ソ連戦車以外は砲塔が車体同様に溶接構造となり、T-80以外はレーザー測遠機を装備した, 20世紀の内にも登場するはずであった「第4世代主力戦車」は未だ模索の段階であり、世界的な定義は決定していない。これは東西冷戦の終結によって、正規戦が起こる蓋然性が低下し、各国の新型戦車開発が停滞しているからである。同時に、戦車開発史上もっとも一般的な手法であった、「サイズを拡大することで主砲の大口径化と防御力向上を達成する」ということが困難になったからである。なぜならば、物理的条件から60tを超えるような戦車は行動を大きく制限され、主力戦車としての運用に支障が出るのである。この問題を解決するために、サイズ拡大によらない性能向上が模索されている。, サイズ拡大によらない性能向上の一つは、情報のデータリンクを強化して、集団的な戦闘力を高めることである。これは既に現実のもので世界最新鋭の戦車(いわゆる3.5世代主力戦車)はC4Iと呼ばれる情報指揮統制システムを備えている。情報連携力を強化する研究は各国で盛んに行われており、なかには戦車機能を数両で分担するなど斬新なアイデアも提案されている。米国のM1A3計画のように軽量化を目指すものも存在する。, そして限られた資源で、非対称戦やネットワーク中心の戦いという新しい課題に対応しなければならず、従来の正規戦闘より柔軟さが求められる。前述のデーターリンク機能に加えて高度なセンサーによる周辺監視システム、不意打ちに備えた全周防御、迅速に戦場まで移動する戦略機動性、戦場における自由度を確保する戦術機動性などが求められている。, 2010年度に装備化された10式戦車では、可視系の視察照準にハイビジョンカメラを用いたモニター照準方式を世界で初めて戦車に採用[17]、複数の目標を同時に捕捉識別する高度な指揮・射撃統制装置に加え、リアルタイムで情報を共有できる高度なC4Iシステムなどを装備しており、例えば小隊が複数の目標を同時に射撃するときシステムが最適な目標の割り振りを自動的に行って同時に発砲したり、小隊長が小隊内の他の戦車の射撃統制装置をオーバーライドして照準させることも可能である。また、1990年度に制式化された90式戦車では実現困難だった水準の小型軽量化を実現し戦略機動性が向上、戦術機動性も油圧機械式無段階自動変速操向機 (HMT) の採用により向上した。, ロシアではアルマータと呼ばれる装軌車両用の共通車体プラットフォームを基に次期主力戦車T-14を開発中である。それまでにも戦車以外の中軽量級の戦闘車両の開発では、モジュール化やコンポーネントの共用化によって開発、生産、運用といった面での経費節減と運用効率向上を図ることがあったが、現在はロシアのT-14のプラットフォーム共通化で開発が進められている[注 11]。T-14は乗員全員を車体前方に設けられた装甲カプセルに搭乗させることで乗員を弾薬から隔離し、砲塔の操作を車体内から遠隔操作で行う無人砲塔を採用していると見られ、10式戦車と同じく車長と砲手の視察照準にはモニター照準方式が採用されていると考えられる。一方、ドイツではウクライナ問題の影響から戦車の配備数を増やし近代化改修を進める動きがあり、T-14の配備がドイツとフランスの次期主力戦車計画にどのような影響を与えるか今後の動向が注目される。, 各国の技術開発・研究などから、戦車は将来的に以下のような発展をみせると予想されている。, 戦車が登場した第一次世界大戦当時の日本は、1915(大正4)年時点で国内自動車保有台数がわずか897台という有様であったが、他の列強諸国同様に新兵器である戦車に早くから注目しており、ソンムの戦いの翌年である1917年(大正6年)には陸軍が調達に動き出している。1918年(大正7年)10月17日、欧州に滞在していた水谷吉蔵輜重兵大尉によって同盟国イギリスから購入されたMk.IV 雌型 戦車1輌が、教官役のイギリス人将兵5名とともに神戸港に入港した[5]。, 翌1919年(大正8年)に新兵器の発達に対処するために、陸軍科学研究所が創設され、以降1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて日本陸軍はルノー FT-17 軽戦車とマーク A ホイペット中戦車を試験的に購入して、研究している。当初は「戦車」と言う言葉が無く、「タンク」や「装甲車」と呼んでいたが、1922年(大正11年)頃に「戦う自動車から戦車と名付けては」と決まったようである。1923年 - 1924年(大正12 - 13年)頃には戦車無用論も議論されたが、1925年(大正14年)の宇垣軍縮による人員削減の代わりに、2個戦車隊が創設された。当時(大正後期)の日本の不況経済や工業力では戦車の国産化は困難と考えられたうえ、イギリスも自軍向けの生産を優先させていたため[5]、陸軍ではそれらの代替としてルノーFTの大量調達が計画されていたが、陸軍技術本部所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた原乙未生大尉(後に中将)が国産化を強く主張、輸入計画は中止され国産戦車開発が開始される事となった。, 戦車開発は唯一軍用自動車を製作していた大阪砲兵工廠で行われることとなり[5]、原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーバネ式サスペンションやディーゼルエンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われた。それらは民間にもフィードバックされて日本の自動車製造などの工業力発展にも寄与している。設計着手よりわずか1年9ヶ月という短期間で1927年2月には試製1号戦車をほぼ完成させ、試験でも陸軍の要求を満たす良好な結果が得られたことから、本格的な戦車の開発が認められた[5]。, その後、八九式中戦車、九五式軽戦車 、九七式中戦車などの車輌が生産された。しかし、第二次世界大戦においては、日本は限りあるリソースを航空機や艦艇に割かざるを得ず、しかも、その間の欧州戦線での開発競争によって日本の戦車技術は陳腐化した[5]。一方で、本土決戦用に温存されていた車輌とともに、原中将はじめ開発・運用要員の多くが幸いにも終戦まで生き延びていたことが、戦後の戦車開発に寄与することとなる。, 戦後日本は非武装化されたが、共産主義勢力の台頭と朝鮮戦争の勃発により日本に自衛力の必要性が認められて警察予備隊(後の自衛隊)が組織され、アメリカより「特車」としてM4中戦車などが供給された。また朝鮮戦争中に破損した車輌の改修整備を請け負った事などで、新戦車開発・運用のためのノウハウが蓄積されていった。とはいえこれらアメリカ戦車がまもなく旧式化することは明らかであり、規格が日本人の体型にも合わないことも踏まえて、日本の国情に合わせた国産戦車の開発を目指すこととなった[5][22]。, アメリカの支援などによって開発費の目処もつき、戦後初の国産戦車となった61式戦車が1961年(昭和36年)4月に制式採用された。この戦車は開発時点で既に他国の水準からはやや遅れていたことは否めず、習作的意味合いが強いものであったが、続く74式戦車で世界水準にキャッチアップし、更にその後継の90式戦車で世界水準を一部上回ったといえる[5][22]。, 2000年代に開発された10式戦車は、全国的な配備を考慮して90式戦車よりも小型軽量化しつつ同等以上の性能を有しているとされ、特に射撃機能やネットワーク機能などべトロニクスの進歩による戦闘能力の向上が著しい。10式戦車は耐用期限到達に伴い減耗する74式戦車の代替更新として2010年度から調達が開始された。一方、2013年に25大綱と26中期防が閣議決定されたことで、今後、本州配備の戦車は廃止され、戦車は北海道と九州にのみ集約配備、本州には戦車とは異なる新たなタイプの車両の16式機動戦闘車のみが配備される。16式機動戦闘車は装輪車のため10式戦車と比して火力と防護力だけでなく戦術機動性に劣るが、逆に戦略機動性は優れており、路上を高速で自走することにより74式戦車と同等の火力を素早く展開できる。本州配備の74式戦車が担っていた役割の一つ、普通科部隊への射撃支援については、16式機動戦闘車が引き継ぐことになる。, 防衛省では有人戦闘車両の無人砲塔化と、有人戦闘車両と無人戦闘車両の連携に関するべトロニクスシステムの技術研究が行われている。この研究は2020年度まで行われる。, 砲戦距離は地形条件により変化するが、1967年のゴラン高原での戦車戦では900 m から1,100 m の射程で戦闘が行われており、ヨーロッパでは2,000 m 程度で生起する想定がされている。一般に、1,000から3,000 m の距離で敵戦車と対峙した場合、3発以内で命中させないと相手に撃破されると言われている[27]。, 重量と防御力を最適化するため、戦車の装甲厚は敵と向き合う砲塔前面や車体前面が最も厚く、一方で上面や底面が薄く造られている。現在の主力戦車の正面装甲は、対抗する主力戦車が搭載する火砲に対し1,000 m で攻撃を受けても耐えることが求められているとされるが、実際には常に競争を続ける盾と矛の関係であり、防護性能より火力性能が上回ることが多い[28]。, 殆どの兵器は開発・製造に高度な専門技術と産業基盤が要求される工業製品である。戦車も例外ではなく滑腔砲や複合装甲等の軍事技術力、通信機器、暗視装置、測遠機、弾道計算機といった電子技術力が要求される。東側戦車はソ連、西側戦車はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ等の先進国が開発しているが戦車の構成部品全てを開発・生産するのは困難であり、他国から一部の機器を輸入する例は珍しくない。そのため多くの国は配備する戦車を輸入に頼っており、戦車生産国はこういった国々へ輸出することによって経済的利益や量産効果による調達価格の低減と共に、軍事・政治的影響力の確保を図ろうとする。兵器メーカーが輸出専用の車輌開発を行う場合もある[注 17][注 18]。現代の戦車は車体はそのままに主砲や装甲の改良、最新電子装置の搭載などの付加や交換による近代化改修が行われている。これは軍事予算の限られた途上国の軍隊が、旧式化した先進国の中古の陸上兵器を改修し実用的な兵器として運用していた手法[注 19]と同様で、こういった改修は[注 20]性能が低く戦力面で足手まといになる旧式戦車が消耗される利点がある。21世紀に入ってからは、戦車自体の輸出だけでなく生産技術の輸出も行われるようになり韓国やトルコの様に国産戦車の開発と生産を行える国が増えつつある。, 発展途上国においては第2世代、2.5世代主力戦車であっても貴重な戦力であり、これは第3世代主力戦車と比べコストが低く、重量も軽量なため、道路などのインフラの未熟な国でも運用できることが大きい。そのため市場価値が未だ大きく、旧共産圏の国々では新規生産と改良が継続されている。。これらの戦車は原型を留めないほど改修されて現地で使用されており、砲塔を地面に埋めてトーチカ代わりにしたり、トラックやトレーラーに砲塔を移植するなど強引な改造をされる例が後を絶たない。これら戦車のスクラップも発展途上国では価値ある中古商品として取引され続けており、退役した戦車をこれらの国々に売り払う軍も少なくない。, 冷戦期には、世界中の国々が陸上戦闘での主戦力となる戦車を多く保有していたが、冷戦終結後は脅威の減少[注 21]に伴う軍事費の削減によって、旧式化した大量の戦車と同数の新たな戦車を導入するだけの予算は与えられなくなった。また、多くの国での戦車保有数は100輌単位だが、アメリカ、中国、ロシア等の超大国での戦車保有数は1,000輌単位となっている。, 多くの場合現代的な無限軌道は、鋼製の履板(りばん)を1枚ずつキャタピラピンで接続したもので、転輪を一巡する輪を構成する。この帯状のものは履帯(りたい)、キャタピラ、無限軌道と呼ばれる。また履帯と走行用の車輪、起動輪、誘導輪、上部転輪などの走行装置をもつ車輛を装軌車両と呼ぶ。, 履板は1枚1枚がピンによって連結され、地形に追従して転輪を支え、穴や溝に差し掛かっても一種のフタのような役を果たして転輪を落としこまない。このような働きによって、装軌車両は、装輪車両では通過できないような不整地や、砲弾の炸裂痕に満ちた大地、壕の設けられた戦場を走破、また鉄条網が引かれた阻止線を突破できる。履板を備えた無限軌道は、タイヤなどに比べて地面と接する面積が広い。これにより荷重が分散され、泥濘のような多少の不整地でも走行できる。また接地面積が広いことから、トラクションをかける力が高く、装輪車両では滑ってしまうような路面でも進んでいける。こうした能力は「不整地走破能力」と呼ばれる。多少の幅のある壕も越えて行け、これは「越壕能力」と呼ばれる。段や堤も通常のタイヤ方式(装輪式)よりは高いものまで越えられ、「越堤能力」と呼ばれる。履帯は接地している地面と大きな摩擦を生むため、「登坂能力」にも優れる。浅く川底の状態の良い河川ならば渡渉が可能である。, 履帯はエンジンから出力される動力によって駆動するエンジンは変速機、操向変速機、最終減速機を経て起動輪へと動力を伝える。起動輪とはエンジンの駆動力を履帯に伝える車輪である。起動輪には歯輪が取り付けられており、履板に設けられた穴へ歯をかみあわせて履帯を動かす。, 変速機はエンジンから出力された高回転の動力を順次低回転に調速し、ゆっくりしているものの強い力で数十トンの質量を動かすだけのトルクを作り出す。動力はさらに操向変速機へ送られ、ここで左右の履帯へ分配される。操向変速機によって履帯は動力を増減し、または停止させられる。これによって装軌車両は向きを変えたり、緩く円を描くような旋回、または急旋回を行える。ブレーキは操向変速機に組み込まれており、走行中の減速に使用される油圧多板ディスクブレーキと停車中のパーキング・ブレーキがある。一部の戦車ではディスク・ブレーキに加えてオイル式のリターダを備える。, 履帯による操向は左右起動輪の回転数の調整(差)によって行われる。単純な進行方向の変更では左右回転数の小さな差で行われるが、片側の履帯を停止したまま逆側の履帯を動かすことで「信地旋回」と呼ばれる停止側の履帯を中心とするほぼそのままの位置での旋回が行える。また、左右の履帯を互いに逆回転させることで「超信地旋回」と呼ばれるその場で旋回が行える。, 上記のように履帯は多くの長所を備えるが、短所も多い。履帯による走行はエネルギーロスが大きく、速度や燃費が犠牲になっており、装輪式のようにパンクはしないが、片方の履板1枚のキャタピラピンが切れたり、履帯が車輪から外れれば、その場で旋回する以上の動きは出来なくなる。履帯は騒音と振動も大きく、騒音は戦場での行動において容易に発見されることを意味し、振動は車載する装置の故障の原因となり乗員を疲労させる。路面の状況によっては大きく砂塵を巻き上げて自ら位置を露呈してしまう。またキャタピラと転輪類そのものが車重全体に占める重量も相当なものであり、大きなものでは履帯1枚が数十kgになる場合もあり、これを連結する履帯も数トンの重さとなる。装軌部分は車輛の側面の多くを占め、体積としても装輪車両より占有率が高い。, 戦車の行動に適した場所としては開けた土地が挙げられる。これは戦車が攻撃に投入される兵科であり、速度と突進力を生かした機動がその戦術的な価値を高めるからである。電撃戦における機甲部隊は、迂回し、突破し、後方へ回り込んで敵の司令部、策原地などの急所をたたくことが用法の主たるものである。防御戦闘、市街地の防衛などは戦車の任務として本来不適である。戦車は開闊地(かいかつち・Open terrain)や多少凹凸のある波状地 (Rolling terrain) において本来の機動力を発揮できる。反対に密林地帯や森林地帯のような錯雑地 (Closed terrain)、都市部、急峻な山岳地帯、あるいは沼沢地のような車両の進入を拒む場所は、戦車の機動が阻害されるので不適な場所とされる。泥濘も履帯に絡みつき、転輪や起動輪を詰まらせて走行不能にすることがあり、不適である[29]。, 橋梁による河川の通過は橋の強度が求められ、橋に頼れば移動経路が制約されて、戦争時には意図的に破壊されることもあり作戦上は好ましくない。履帯が隠れる程度の浅い河川では多くの戦車が渡河が可能である。車体を水密にすることで、エンジンの給排気だけ確保すれば水中でも[注 22]短距離であれば川底を走行することで渡河できる可能性が高く、給排気管や給排気塔と呼ばれる専用装備が用意される戦車もある。ただし運転席が水面の下に入ると目視での運転ができなくなり、計器頼りとなる。また中空構造の戦車が水中に入るとそれなりに浮力がかかり、その分無限軌道と水底との間の摩擦力が減ることから、走行は陸上よりも難しくなる。, 戦車だけでなく車両全般の渡河を行うため、専用車両や舟艇が存在する。比較的狭い幅の川では、架橋戦車と呼ばれる戦車相当の車台上に折り畳んだ橋梁構造を固定運搬し川辺から素早く展開設置する機能を持った装甲車両が使用される。また、幅の広い河に対しては架橋戦車の数両分で橋脚を備え連結出来るものも存在する。ポンツーンやポンツーン橋と呼ばれる小型艇を数艇以上を川面に並べることで応急・簡易に戦車等が渡河可能とするものもあり、さらに広い河ではこれを橋ではなく艀として使用することもある。この専用運搬車両も存在する。, 戦車を相手に戦うことを「対戦車戦」、戦車を攻撃するための手段を「対戦車兵器」とそれぞれ呼ぶ。, 戦車は開口部が極端に少ないため、視界は狭く死角が多い、また外部音が遮蔽され乗員は周囲の音を感知することが困難であるという弱点・欠点がある。反対に、戦車は車体や走行音が大きく、エンジンなど熱源を積んでいるため、暗視装置など技術機材の有無を問わず敵からは察知されやすい。戦車の前面は厚い装甲により防御力は高いが、左右側面・上下面・後面は装甲が比較的薄い傾向があり弱点になっていることが多い。ハッチ、外部を観察するための光学装置、履帯や転輪も破壊しやすく、戦車の弱点である。, 戦車と戦う側からすると、敵戦車の弱点を見極めてそこを攻める必要が出てくる。歩兵は物陰に隠れたり地形に潜んで、戦車を奇襲的に攻撃することができる。攻撃機や武装ヘリコプターといった航空機は戦車からは察知されにくく、戦車砲を指向させにくい角度の上空から一方的に戦車を攻撃することができる。, 戦車が登場した当初に行われた対戦車攻撃としては、地雷を用いて戦車の履帯や底面を破壊する、歩兵が肉迫して手榴弾や爆薬を投げ込む、野砲が直接照準で射撃するといった方法があった。第二次世界大戦初期までは、歩兵用の対戦車兵器のひとつとして対戦車ライフルが用いられていた。人力で運搬・射撃する都合上、威力を向上させようとすると重量・反動が増大して運用が難しくなる。戦車の装甲が強化されるに従い、対戦車兵器としては衰退した。, 第二次世界大戦後期にはバズーカやパンツァーファウストなどの個人が携行することが可能な対戦車ロケットや無反動砲が普及したことにより、射程では劣るが貫通力では対等になった。これらの兵器は成形炸薬によるモンロー効果を用いた成形炸薬弾(HEAT弾)を使用し、人間が受け止められる反動以上の対戦車戦闘力を歩兵にもたらした。, 1970年代には、誘導装置を備えた対戦車ミサイルにより、それまでの「戦車の歩兵に対する圧倒的な優位」の状態が一気に崩れ、立場が逆転してしまった。つまり歩兵は、比較的安価で入手しやすく、取り扱いが軽便な携帯用対戦車兵器を用意しておくことによって、一台あたり数億円~十数億円ほどもする高価・高コストな敵戦車[30]を撃破することができるようになった。イスラエルとアラブ諸国が争った数次の中東戦争ではしばしば大規模な戦車戦が繰り広げられた。第一次中東戦争は歩兵支援にとどまったが、特に1973年10月に勃発した第四次中東戦争ではアラブ側・イスラエル側併せて延べ7,000輌(イスラエル約2,000輌、エジプト2,200輌、シリア1,820輌、その他アラブ諸国約890輌[31])の戦車が投入され、シナイ半島、ゴラン高原において複数の西側製戦車(センチュリオン「ショット」、M48パットン/M60パットン「マガフ」など)とソ連製戦車 (T-54/55、T-62、なおイスラエル軍も「Tiran-4/5/6」として使用)が正規戦を行った。シナイ方面で行われた10月14日の戦車戦はクルスク大戦車戦以来最大の規模[32]となり、また対戦車ミサイルが大規模に投入され戦車にとって大きな脅威となった事から、以後の戦車開発に戦訓を与え、以降の戦車は更に重武装、重装甲であることが求められる様になった。実際に第四次中東戦争中の1973年10月8日に発生したエジプト軍第二歩兵師団とイスラエル軍第190機甲旅団の戦闘では、エジプト軍がRPG-7やAT-3「サガー」を大量に装備して迎え撃った。随伴歩兵を伴っていなかったイスラエル軍戦車はこうした対戦車攻撃を満足に防げず、約120輌の戦車うち100輌近くが約4分間で撃破された。ただの鋼板による防御力しか持たない貧弱な戦車で侵略してきても、戦車を持たない弱小国・小規模な武装組織・個人がこれを迎撃できるようになったということが世界中に理解された。反面では、ゲリラ的な小組織や個人でさえも敵正規軍の戦車を撃破できるという事態になり、当時盛んだった戦車不要論をある意味で証明することになった。また、ソ連で開発されたRPG-7は簡単な構造で、途上国でも簡単にコピー生産できるため、弾頭は無誘導式ながら歩兵用の対戦車擲弾発射器として世界で広く使用され、いわゆる低強度紛争(LIC=Low Intensity Conflict)が増える要因ともなった。, その後は携帯式対戦車兵器の威力に対抗できるよう、爆発反応装甲や複合装甲といった技術が進化し、歩兵による戦車の撃破はかなり困難になった。一例として、元来は戦車の弱点である上側や下側の表面に増加装甲を加え、外部からの攻撃効果を薄めるものなどが登場した[注 23]